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2007年9月28日

お墓の話 >>単なる日記 

お墓の話がNHKでやってましたね。
個人的には散骨派ですが、世間的にはそうでもないのかなあ。

そもそも昔は骨にして云々というのがなかった、実は衛生面からの要請が強かったとかという文献を見聞きしたりもします。
っていうか、なんでそんなもののために・・・と思ってしまうのです。
第一世代はいいですが、第2世代になれば血筋は引いていても想いは薄くなっていく。
どこに移り住むかもわからないのならば、土地に縛られる必要もなくて、なんらかの思い出を形として残せればいいのではないかと考えたりします。

で、そういう系図的なギャップや思い出もない人たちに想いを馳せるのであれば、「アルバム」はどうなんでしょうかね。
写真のアルバムとか、何かしらの経歴とか、いろんな言葉を集められるアルバム。
第2世代にも引き継いでもらって、書き継ぐ。
子供が増えていくとどうやって集めるんか、っていう話にはなりましょうが、ひーひーじーちゃんは○○でね、とか、顔も見れて、その当時が偲ばれて、きちんとした繋がりを感じられる方が大切な気もするのです。
いままでの繋がりを大切に想うのは変わらないけれど、もっと深く感じられるような・・・。

私が散骨が良いという点については、ぱっと散るというのがカッコエエなぁというミーハーな気持ちがメインですけど(笑)
情念を家族に縛りつけて亡くなるよりも、潔く散られるぐらいの生き方がしたいですな。
・・・太宰治のように『恥の多い生涯を送ってきました』というのもなくはないけど、そんなん知るか!(笑)

太宰もだいたいが・・・

太宰 治「新ハムレット」内の一文より

言葉のない愛情なんて、昔から一つも実例がなかった。
本当に愛しているのだから黙っているというのは、たいへんな頑固なひとりよがりだ。

好きと口に出して言う事は、恥ずかしい。
それは誰だって恥ずかしい。
けれども、その恥ずかしさに眼をつぶって、怒涛に飛び込む思いで愛の言葉を叫ぶところに、
愛の実体があるのだ。
黙って居られるのは、結局、愛情が薄いからだ。
エゴイズムだ。
どこかに打算があるのだ。
あとあとの責任に、おびえているのだ。
そんなものが愛情と言えるか。
てれくさくて言えないというのは、つまりは自分を大事にしているからだ。
怒涛へ飛び込むのが、こわいのだ。
本当に愛しているならば、無意識に愛の言葉も出るものだ。
どもりながらでもよい。たった一言でもよい。
せっぱつまった言葉が出るものだ。

猫だって、鳩だって、鳴いてるじゃないか。
言葉の無い愛情なんて、古今東西、どこを探してもございませんでした、
とお母さんに、そう伝えてくれ。

愛は言葉だ。言葉が無くなりゃ、同時にこの世の中に、愛情も無くなるんだ。
愛が言葉以外に、実体として何かあると思っていたら、大間違いだ。
聖書にも書いてあるよ。
言葉は神と共に在り、言葉は神なりき、之に生命あり、この生命は人の光なりき。

とまで熱く語ってその最期はないだろと、ひじょーに思うのです。

いつもながらですが脱線しまくりですな....

・・・骨になることを考える年代でも、向かおうとしているわけでもないので(笑)ご安心を。

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投稿者 debizoh : 2007年9月28日 20:44



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