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2007年9月30日

I Like You. >>単なる日記 

I Like You.

前回の、「お墓の話」から脱線した太宰つながりですけれども、なかなか難しいですね。

太宰 治「新ハムレット」で熱く語っている好きと怒涛に飛び込む思いで叫ぶ、そこまでいってますとかなり昂ぶっている状況です。その辺りが総括できなかったことによって、恥の多い人生を・・・と繋がっていったのでしょうか。太宰が好きなのはその辺りで似通ったところがあるなと思うからなのかな。

わたしはあなたのことがすきです

と、伝えた際に 高まっている好きというものと、友達に近いLikeとしての存在ですというニュアンスなのかははっきりしづらい。
友達もLikeだから友達なわけで、ものすごく微妙なところなのかもしれません。
ずっとかけがえのない存在としてのLikeもあります。
それ以外にもいくつかのケースはあるけど、割愛しときます。

愛も組み合わせれば友愛やらなんやらかんやらというのも出てくるわけで、ほんとに難しいなと。

ハムレットでの好きや愛という表現での妥当となるのは『恋慕』かもしれませんね。
ある意味ちゃらんぽらであれば、本当には恋慕がなくても・・・で、うまくいったり、騙されたりする可能性もあり、
強い恋慕の場合では、焦げてしまうか、怖かったり、うまくいったり・・・
恋慕があらぬ一方向にいくとストーカーと呼ばれたりする行為に走るのかもしれませんが、そこんとこのプロセスと帰着した関係はよくわかりません。

恋慕の場合はたたいて平らにして、薄くするのがよいのやもしれません。
単に忙しくてかまってられなかっただけでうまくいったりとかもしますが・・・。
まあしかし、波がうまく相手と合ったらうまくいく、そういうことなんでしょう。
恋慕を薄くしすぎて無くなる場合もあります。結婚して全く恋慕が抱けなくなったとかそういうケースもありそうです。

さて、『偶然に3回あったら、それは必然』とか(くさっ)言ったりするのかもしれませんけど、それが本当に偶然かどうかなんて確証が持てません。

故意と受け止められるか、そうは見えない確信犯もいるかもしれないし、そういうことも考えるとなかなかオチオチと聞いたお店や場所には行きづらい。
「えー、うっそまじで、なんでいんの?」とか(敢えてのギャル語調)言われたら、ふつーに聞いておいしそうだから行ってみたとか、風景がいいから行ってみたという気持ちが萎えますからね・・・

等々という超電磁バリアが私にはあります。(今のところ超電磁ヨーヨー、スピンは扱っておりません。ちなみに、お菓子の森永スピンは結構好きです。)
実際のところはやましい気持ちになれば行かない、っていうだけですが。

まー、そんなことを頭でっかちのボクは太宰つながりで考えてみたりする今日この頃です。そういうことが昨今であったとかっていうことじゃないので、邪推はしないでね(--;;

前回に引き続いての引用。・・・『ゴンドラの唄』もいいので、よかったら検索してみてくださいまし。
太宰 治「新ハムレット」内の一文より

言葉のない愛情なんて、昔から一つも実例がなかった。
本当に愛しているのだから黙っているというのは、たいへんな頑固なひとりよがりだ。

好きと口に出して言う事は、恥ずかしい。
それは誰だって恥ずかしい。
けれども、その恥ずかしさに眼をつぶって、怒涛に飛び込む思いで愛の言葉を叫ぶところに、
愛の実体があるのだ。
黙って居られるのは、結局、愛情が薄いからだ。
エゴイズムだ。
どこかに打算があるのだ。
あとあとの責任に、おびえているのだ。
そんなものが愛情と言えるか。
てれくさくて言えないというのは、つまりは自分を大事にしているからだ。
怒涛へ飛び込むのが、こわいのだ。
本当に愛しているならば、無意識に愛の言葉も出るものだ。
どもりながらでもよい。たった一言でもよい。
せっぱつまった言葉が出るものだ。

猫だって、鳩だって、鳴いてるじゃないか。
言葉の無い愛情なんて、古今東西、どこを探してもございませんでした、
とお母さんに、そう伝えてくれ。

愛は言葉だ。言葉が無くなりゃ、同時にこの世の中に、愛情も無くなるんだ。
愛が言葉以外に、実体として何かあると思っていたら、大間違いだ。
聖書にも書いてあるよ。
言葉は神と共に在り、言葉は神なりき、之に生命あり、この生命は人の光なりき。

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投稿者 debizoh : 2007年9月30日 03:02



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